「大学倒産の時代がやってくる」、このようなショッキングなタイトルが目に飛び込んできた。今なら決して違和感はない。しかし時代は30年前の1986(昭和61)年である。タイトルの後にサブタイトルとして以下の文章が続く。
―― 昭和60年代の後半には18歳人口が減少し始める。現在不人気な大学は、そのとき生き残れるか。10年後、あなたの母校はなくなっていないか ―― これは中央公論昭和61年11月号の記事だが、執筆者は丹羽健夫(当時:河合塾進学教育本部長)、黒木康之(当時:河合塾教育情報部次長)である。その当時、米国での大学倒産は以前から伝えられていたが、我が国では18歳人口がピークを迎える前で、多くの大学が拡大路線を選択しようとしていた時代である。この記事は人口減に入る昭和の60年代後半から70年代にかけて問題は深刻であるとして、どんな大学が危ないか、調べてみたらあまりにも多いので呆然としたとのことで始まっている。
それから10年、1996(平成8)年6月21日放映のNHKクローズアップ現代にも「試練の私大経営」として少子化・大学倒産時代の到来について取り上げられ、それへの私学の取組みを中心に番組が構成された。そこには芝浦工大の給与体系見直し委員会の様子が映し出されていた。たまたま、最近、何人かでその映像を見る機会があったが、多くの者の印象として20年前の番組にもかかわらず、今の時代にも十分通用できる内容であったとの感想であった。それは私立大学の危機的状況は昔も今も変わっていないということである。ただ、21世紀に入って危機的状況は以前と比べて確実に進行している。そのあたりの進行の様子は第1章、第2章で述べている。。
筆者は私立大学の再生、発展にとって、時代を先取りする特色ある教育(学科、学部など)、即ち教育(大学)の個性化、及び時代の変化に対応可能な組織、すなわち柔軟な教学組織が重要な要因であると考えている。
3年前の拙著「私学の再生経営」では、芝浦工大の破綻の淵からの再生について、35年間の経緯を、再生施策と大学財政への効果を軸に述べた。今回は一つの大学に注目するのではなく、18歳人口減少と共に影響が危惧される大学進学率低下等々、私学の危機が叫ばれる時代に停滞を超えた「再生・発展」か、忍び寄る「破綻」かという状況に直面している私学関係者の益々の奮起を期待し、再生・発展の指標となるべく本書を提案したい。
全国の大学で学園紛争が未だ収まりをみていなかった1970年、筆者は芝浦工業大学に入職した。1年後1971年4月29日の朝、配達された毎日新聞の朝刊をみて驚いた。「ヤミ入学2百人、教授会もびっくり、定員420人、合格1795人、入学1990人」との見出しで前代未聞の本学の「大量不正入学」事件の記事が掲載されていたからである。そして学園紛争が再燃、多くの戦闘服姿のガードマンが常駐した。現在では信じられないことだが教授会も分裂、二つの教授会が存在していた。多くの教職員は大学の行く末を案じ学内は暗い状況であった。
1971年10月15日には東京地方裁判所によって当時の理事長及び3理事の職務執行停止の仮処分が決定された。理事長職務代行、理事職代行には、後に最高裁判事になられた方を含めて3名の弁護士が任命された。
当時、それが経営破綻を意味しているとは思わなかった。漸く大学にとって夜明けがうっすらと見えてきた感じがしていたからである。しかし実際には、その年は国の補助金は交付されず学費では教職員の人件費は賄えない状態で、12億円の帰属収入に対し5億円弱の赤字を出した。これ以降、代行理事の下、大学運営の正常化が進められ、当時分裂していた教授会も和解、1年後には新理事会が発足することになり、大学は一歩一歩改革の道を歩みだした。だが財政状況は1988年には借入金は45億円に上り、1991年には累積赤字は30億円近くに膨らみ、最悪の状態であった。
その後、教職員の長年の努力も報われる時が来る。第2章、第4章で詳細は触れているが、人事制度改革、早期退職優遇制度の導入と新学部づくり、工学部の臨時定員増、二部改革など一連の教学改革の諸施策によって、芝浦工大は漸く以前の状況から脱し、前進する。工学部に比べれば小規模であるがシステム工学部の誕生は大きな転機になる出来事であった。システム工学部開設が大学院の活性化の引き金となり、博士課程の開設につながった。財政的にも学生数の純増も重なり、工学部の臨時定員増と併せて経営収支の改善に大きく寄与した。
一方、理事会は人事制度改革、とりわけ教職員の高齢化対策、定年問題に積極的に取り組んだ。給与体系見直し委員会を発足し、給与体系の見直しと定年問題を検討した。様々な取り組みの結果、経営体質の大幅な改善が図られ、1971年度からの累積赤字は28年後の1999年度に漸く黒字に転換した。委員会の答申を受けて理事会は7年間かけて在職教職員の一律65歳への定年引き下げを決定、実施に踏み切る。これに対し教員21名が2001年10月東京地方裁判所に「定年年齢確認請求」の提訴を行った。最高裁まで上告されたが理事会の完全勝訴に終わるという、私学にとっては画期的な判決となった。
豊洲キャンパスの開校(第6章)、日本初の工学系専門職大学院「工学マネジメント研究科」(MOT)の開設(第5章)、本学伝統の地である港区の旧芝浦校舎跡地の再開発、本学にとっては第3の学部となるデザイン工学部開学(第7章)、など大きな事業を経験した。いずれも学内では多くの意見があり、合意形成には大変なエネルギーを費やした。しかし結果はよかったと信じている。それは多くの卒業生が現在の大学の姿に満足しており、本学への入学志願者数は1970年代にはわずか7,700名程度にまで減少したが、現在は30,000名を超え、2年前には志願者数全国19位の大学となったからである。
本書では私学再生のための経営という切り口で一私学における試みを記したが、厳しい経営環境下にある全国の私学の今後の経営の一助となれば幸甚である。